物心ついたとき、自分という存在が不思議であった。
我思う、ゆえに我あり、のようなことを考えていた。
どこか俯瞰的で、比較しやすく、そうすると
自分の欠点ばかりが気になり、
自分が嫌いと断定しなかったと思うが、自分が好きではなかった。
友人は物心ついたときから自己愛があったそうだが
自分は100%そうではなかった。
そのせいか、追い求める自分像レベルが高く
武装しようとした。
自分ではないものに覆われている中に自分がいた。
・・・・・・
フラメンコは自己愛のある人が踊る?
若い頃はフラメンコに対して、己を表現するものだから自己愛を持ち
見せるものなのか、という印象を受けた。
自分を見て!という気持ちが薄く、フラメンコをやっていて良いのだろうか?
と考えた時期もあった。なんとも頭でっかち。笑
それは単に自分を見て欲しくないだけであった。
なぜなら、武装した自分ではないものに覆われた自分だからだ。
色々あって、フラメンコを少し休んでみたとき
ピアノを弾いてみた。
フーッと、あー若かりし頃ピアノを弾くときだけが武装していない自分と向き合ってたな、という感覚が蘇った。様々な理由・理屈で気づかなかった。
フラメンコもそうだった。
フラメンコをやっているときが自分に正直で、
それ以上に心躍る・奮えるものがあるのだった。
今は自己愛が確かにある。
なぜなら武装していないからだ。
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